宵は深々、月下の花弁よ朱に染まれ

 
 
 上弦の月が天に座する今宵、京の都にて、紅い血飛沫が宙に弧を描く。
 
 ――ここ最近では、よくあることだ。
 天皇の御座すこの京が平安であったのは、もう、随分と昔のことのように思われる。実際はここ数年でのことなのだが、その豹変振りには驚きを禁じえまい。今では、何でもないただの町人ごときが夜道を歩くなど、もっての外。多少の武術の心得があっても、おちおち酒に酔うこともできやしない。
 尊皇攘夷――長州だかどこだか知らないが、そんな活動を奴らが始めてから、もういかほどになるか。「天誅」と差して、幕府に組する要人ども、また、それに連なる武士をばっさばっさと殺し始めたのは。
 あちらさんにはそれはそれで理由やら、思惑やらあるのだろうが、京の住人にとっては傍迷惑以外の何物でもない。闘志漲る若い志士どもが、幕府のお偉方やら何やらを殺すのは――こう言っては彼らに悪いだろうが――大衆にとっては全く関係のない、それこそ遠い国の出来事だ。
 だが、何かと物騒なことには変わりない。人々の不安は町の空気を揺るがし、闇を蔓延らせるものだ。 今、この町は荒れていた。
 物質的な、つまり、町が廃れ寂びているという意味で、ではない。そういう意味でなら、この町は十分栄えている。ただし――その足下には血の海が広がっていることを誰もが承知している上で、だが。そのことも含めて、人々の恐怖が、悲哀が、狂気が、殺意が、そして――夜風に舞う血潮が、この町の空気を荒らしていた。
 
 さて、その荒んだ空気が渦巻く京において、人斬りを取り締まる立場でありながら、最も京人から畏怖され、それと共に人斬りが跋扈する中でなお、「人斬り」の名を囁かれている集団がある。
 ――新選組。
 お抱えである会津から賜った名を、そう言う。
 
 
「新選組、永倉新八だな?」
 いい加減とっぷりと日も暮れた頃、夜番の巡回を終えた永倉は己が率いる二番隊を先に帰し、一人、欠伸を交えつつ屯所へ帰ろうと夜道を歩いていた。その様子からは、つい先ほどまで、鬼神のごとく剣を振るい、不逞浪士を斬り捨てていたとは思えない。
 ――何せ、返り血一つ浴びていないのだから。
 今日は久し振りに大捕物となり、最後まで彼はなんやかんやと役所に留めさせられていた。隊長とあっては致し方がないが、どうにもこの手のことは面倒臭くて仕方がない。
 おかげで永倉の機嫌は頗る悪かった。
 そんな折、既に鞘から抜き放った刃を正眼に構えた浪人風の男達が、彼の前途を立ち塞ぐように現れた。ご丁寧にも、永倉にとっては耳だこの台詞まで添えて。
「――あぁ……ひぃ、ふぅ、みぃ……多いな、おい。ったく、お前さん方はそんなにヒマを持て余してんのかい」
 彼らまでの距離は約四間、人数は二十足らずといった所か。
 それを見る永倉は呆れ返るばかりだ。本当にあほらしい。これだけの数がいれば、己を倒すことができると本気で思っているのだろうか。見た限り、どいつもこいつも屁っ放り腰ばかりだ。
 少し強めの風が、辺りをさわさわと揺らす。
 永倉の機嫌は、まるで滝のように下降の一途を辿るばかり。
「何を……ッ! ふざけたことを抜かすな、我々は暇潰しに来ているわけではない!」
 永倉の投げやりな言葉に、相手方はやはり――永倉の思っていた通り、見事に激昂し、この暗さでは見て取ることはできないが、おそらく顔を真っ赤にして、皆一斉に奇声を上げつつ永倉に向かって駆け出す。
「お、やるか?」
「その命、頂戴致す!」
 首領格と思わしき男がそう叫び――転瞬、今の今まで不機嫌に歪んでいた永倉の顔に、にやっとした笑みが浮かぶ。そして、淀みない手つきで構え――。
 だが、彼の元へ首領格が叫ぶとほぼ同時に、一番乗りで斬り込んで来た男には、その笑みすら見えなかったかもしれない。
「あっ――」
 ――と言う間にその男は、自らの刀を振り下ろす前に、永倉の抜きざまの胸への一撃に呆気なく終わった。
 男の身体から夜目にも鮮やかな紅が吹き上がる。
 それは、見事な限りと言うしかあるまい。永倉の刃は、男の肋骨の間を違うことなく射抜き、心の臓を捕らえていた。
 一瞬にして、辺りにむせ返るかのような色濃い血の臭いが漂う。
 永倉が、男の身体にずぶりと刺さったままだった刀を引き抜く。そして、弛緩した男の身体が地に沈む。からん、と、男の手から滑り落ちた刀が、空しく音を響かせた。
 その様を見た、残りの男達に小波のように動揺が走る。赤かった顔が青くなる。
「残念。遅いぜ?」
 血振るいをしつつ、そう言い放つ永倉の顔には、やはり笑みが浮かんでいる。――今日は厄日だと開き直った結果である。もういい、この事態を楽しもう。と、そういうことにしたらしい。
「ひっ、怯むな! かかれッ!」
 逸早く正気に戻った例の首領格の男が、どもりながらも檄を飛ばした。
 いつの間にか走る足を止めていた男達は、その声に我を取り戻し、再び永倉へと襲いかかって行く。
 決死の覚悟で。
 勝ち目なんぞ、殆どないに等しい。今の一連の所業だけで、男達は格が違うのを見せ付けられた。
 首領格は己の詰めの甘さに歯噛みした。しかし、もう遅い、後には退けない。彼らは一縷の望みにかけ、各々の掌の刀を強く握った。
「それじゃあ、お手並み拝見といきますか」
 ――死闘が、始まる。
 だが、何人もの男に囲まれてなお、永倉はやはり余裕だった。
 顔の笑みはそのままに、その場からほぼ移動することなく、上段から斬り込んで来た者を一人、背後から回って来た者をまた一人と、正確無比な軌跡が貫く。その太刀筋は全く乱れもしない。
 また一人、男が刃を月に煌かせ、刀を振るい下ろした。
 永倉は一歩後ろに下がるだけ。当然、男は盛大に空振る。そこを蹴倒し止めを一閃。
 そこへすぐさま違う男が隙ありと見て突いて来る。これまたひらりとかわして、つんのめった相手の頸部へと愛刀を薙ぐ。
 肩の辺りで緩く結わえた永倉の髪が、ふわふわと上下に跳ねている。そこを、狙い損ねた刀の切っ先が掠め通る。いや、紙一重で刃は髪にも触れることができなかった。まるで、髪の毛一本まで、神経が通っているかのようであった。
 刹那、たたらを踏んだその男の腕が吹き飛んだ。
「うぐっ……ああぁ!」
 鬼神がにやりと笑みを深めて。
「悪いね」
 そうして、痛みと恐怖に顔を引きつらせ、動きを止めた男の喉へ、一突き。
 始終、こんな調子なものだから、とにかく時間がかからない。が、如何せん数がいる。――いや、数は別に永倉にしてみれば大したことはない。問題は意外と彼らがしぶとかったことだ。
 永倉とこの男達とが、出会い頭に戦い始めてから半刻ほどが過ぎていた。
 
 月が薄雲に隠れ、闇がより一段と深く、暗く、辺りを覆う。いつの間にか風も強くなって来ていた。永倉は戦いの最中にもかかわらず、空をちらと見やって、天気が崩れなければいいのだが、などと考えた。
 気が付けば、この場で生きている者は、永倉と、あの首領格の男のみになっていた。
 その男も、もう既に深手を負っていた。左の肩口から鮮血を溢れさせているのを、必死に押さえながら喘いでいる。額には脂汗が滲んでいるのが窺えた。立っているのが精一杯といった有様だ。
 一方、永倉の方は傷一つない所か、相変わらず一滴の返り血すら浴びていない。
「くっ……!」
 男が苦渋のうめきを漏らした。それでも、もう意地なのか、自棄なのか、また刀を握り直して渾身の力を込め、永倉へと振り被る。
 眼光だけはまだ、鋭く輝いていたが。
 しかし、それも赤子の手を捻るように、簡単に受け止められてしまった。
「あきらめな」
 永倉がそう呟いたその時、突如として第三の声が二人の間を割って入った。
「――永倉さん」
「……一?」
 影から現れたのは、新選組三番隊隊長、斎藤一。それと、その彼率いる三番隊の面子も、斎藤の後方からその彼を追って来ているのが小さく見えた。
 永倉は刀の切っ先を男に向けたまま、苦笑いで彼を迎えた。今の今まで斎藤がすぐ傍まで来ていたことに、全く気が付いていなかったからだ。不覚としか言い様がないが、この斎藤相手ではこういうことも偶にある。全く、敵には回したくないもので、こういう気配を消すことに関して彼を凌ぐ者を永倉は知らない。
「お前、相変わらず気配薄過ぎるぜ。……まあいいや、それよりどうした?」
 永倉がさも不思議そうに首を傾げると、溜息を一つと、呆れたような声が返って来た。
「あんたを探しに来たんですよ。帰りが遅いようだから、うちの隊が借り出されたんだ」
 ――おそらく、何かもう一騒ぎ起こしているに違いないから、と、副長に言われまして……と斎藤は涼やかに付け足す。図星なだけに、永倉は何も言えない。別に相手から絡んで来たのだから、己が悪いというわけではないのだが、こうなっては少々ばつが悪い。
 そんな二人ののんびりとした雰囲気に、辺りの殺伐としていた空気が散る。
 突然の乱入者に暫し目を丸くしていた男は、そうこうしている間にやって来た、三番隊の平隊士によって捕えられ、連れられて行った。彼に何か訊きたいことがあるのだろう。この場で一人生き残ってしまったのは、幸運だったのか、はたまた不運だったのかはわからないが、こうなってしまえば生き地獄が先に待っているのは目に見える。
 斎藤はその後もてきぱきと指示を飛ばし、辺りに散乱していた死体もさっさと片付けてしまった。
 
 最後に残ったのは永倉と、斎藤。それに、まだ立ち消えぬ血の残り香。
 
 永倉は両腕をぐぐっと上げて、大きく伸びをし、それからふと思い出したように苦い顔で呟く。
「……しまった、また役人に会いに行かなきゃならねぇじゃねぇか」
 はっきり言って、面倒以外の何物でもない。
 そう憮然とする永倉に、斎藤は淡々と言い放つ。
「仕方がないでしょう。……俺も行きますから」
 風にその長い髪を躍らせながら、斎藤は渋る永倉を置いて歩き出してしまう。慌てて永倉はその後を追った。何だかんだ言っても、永倉も根は真面目な男だ。己のことだ、事後処理まで全て、人任せにするのはさすがに気が引ける。
「……にしても、最近大分暖かくなって来たな」
「そう言えば」
 道中ずっと黙りっ放しなのも何なので、二人は取り留めもないことを話し始めた。もう既に暦の上では春である。しかし、今年は寒さが厳しく、ちょいと前までは恐ろしく寒かった。
 二人は道の角を曲がる。永倉率いる二番隊が、浪士達と斬り合っていた場に出た。
「そうだ、そろそろ梅が――」
 咲くんじゃねぇか――と、続くはずだった、永倉の言葉がふいに途切れた。永倉の視線がある一点で止まる。
 斎藤もそれに倣うと。
「これはまた見事な……」
 白梅だった。
 二人が曲がった角の先に当たる家の庭先から、立派な梅の木が枝を伸ばし、まだ満開とは言えないが見事な花を付けていた。
「気が付かなかったな。もう咲いてたのか」
 永倉は感慨深そうに呟く。二人は暫しそれを眺め、足を止めた。
 ふと気が付くと、永倉の知らぬ間に月が雲から脱し、再び静かに輝いていた。
 そこへ一瞬、突風が駆け抜ける。
 髪を舞い上げ、着物の裾をはためかせ、梅の花弁を蹴散らして。
 暫く待てば、宙に散った花弁がひらひらと舞い降りて来る。その内の一枚が、まだ乾ききっていなかった血溜りへと、落ちた。
「――朱に交われば赤くなる」
 斎藤がぽつりとそう溢した。
 しんと静まり返った夜道に、小さいながらもその声はよく響いた。
「今、俺達の掌を濡らすこの紅は、善か悪か、どちらでしょうね」
「……は、善だろうと悪だろうと関係ないね。そんなもんはな、後の世が勝手に決めるだけさ。俺達がそんな小難しいことを考える必要はないよ」
 風に煽られ、肩にふわりと乗った梅の花弁を払いながら、僅かに苦笑いを浮かべて永倉は更に言う。
「それに、己の信じた友ならばそれが善であれ悪であれ、後悔はないだろう?」
 ふ、と斎藤が可笑しくて堪らないというかのように、風で乱れた髪を掻き揚げ、小さく笑いながら呟いた。
「そうですね。俺達はただ己の信念を信じ、刀を振るうだけだ。――被る血が何色であれ」
「たとえ――悪と罵られようともな」
 白梅が枝を揺らし、月が二人を照らす。
「そろそろ行くか」
「ええ」
 二人はまた夜道を歩き出した。その影を風が追う。
 
 ――後に残るのは紅い、血と、花弁だけ。
 

 
 
 
 
 
 
 
後書きという名の言い訳
 
新選組の在り方に疑問を持つ二人。だからこそ、このキャストです。まあでも、まだ京都時代だからか結局、元の鞘に戻ってますな。
……色々わかり難いですね。(汗)まだまだ力不足だわ……。
まあ、何がしたかったのかって、最後のシーンが書きたかっただけです。(苦笑)
 
朱に交われば赤くなる......人は交わる友によって善悪いずれにも感化される。<岩波書店:広辞苑第五版>より

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