――丘には哀歌が響いていた。
穏やかな、テノールの声が歌っていた。
黒髪の青年は、朽ちかけた大きな古木に寄り添っていた。
他には、何もなかった。
古木は、嘗ては見事な花をつける桜だったと言う。
その薄い色の花弁を思い出させる面影は、もう、ない。
青年は、何処までも高く青い空を見上げた。
そしてまた、飽きもせず歌う。
「あなたの美しい姿は、きっと、忘れません」
「それを知るのが私だけになっても、覚えていますから」
「――すみません、今まで、気付かなくて」
――こんな風に、なってしまっていたのですね……。
青年はその穏和そうな顔を、一瞬ひどく哀しそうに歪めた。
そして古木を労わるように、慈しむように触れながら、いつまでもその哀しい旋律を紡いでいた。
響くその声が形作るのは、哀歌。
今年も丘の桜は咲かなかった。
もうきっと、この樹に花咲くことはない。
そこにあるのは、ただ朽ちかけた古木。
それと、テノールの声のみ。
――だが、そこに芽吹くものもある。
声の主は歌うのをやめた。
そして、ただ青く澄んだ空を見上げ、静かに美しく笑った。
「よかった。いつかまたここにも、あなたのような花が咲くんですね」
風に誘われるように青年は丘を歩き、また、歌を歌った。
でも少しだけ、そう、ほんの少しだけ――哀しかった旋律が嬉しそうに跳ね、歌う声が上擦った。
その顔がとても嬉しそうに、春のように穏やかに笑む。
――それでも青年は、哀歌を捧げることを止めはしなかった。
あれから、いくつの季節を数えただろう。
年を経るごとに、テノールの声は少しだけ、変わってしまったけれど。
『夏』が来る前に、そこで歌う青年の習慣は途絶えない。
そこには相変わらず、朽ちかけた桜がそのまま佇んでいて。
でもそこには、今年から花をつけるようになった若木が並んでいた。
その丘から見える景色も見違えてしまって、青年は感慨深げに息を吐いた。
――もう、要らないかもしれない。
そうだ、次からは歌を変えよう。
満足げに青年は笑って、蒼穹を仰いだ。
今年で最後の歌を、歌うために。
「こんにちは」
初夏の日差しが降り注ぐ丘の上。
その小さな、けれど涼やかに響く少女の声が、まさか自分に話しかけているものとは、青年は初め気が付かなかった。
「こんにちは。お兄さん」
そうして何度かの呼びかけの後、青年はふとこの丘に立っているのは少女と、その他には自分しかいないということに思い当り、はっと少女を振り返った。
「こんにちは。やっと気づいてくれた」
「――こんにちは。申し訳ありません、気が付かなくて」
「ううん、いいの。だってお兄さん、そういうモノでしょ」
「……そうですね。私に話しかけてこられる方は多くはないので。誰かとお話しするのは、久しぶりです」
――あなたはよく私に気が付きましたね。
そう青年が春の陽のような笑顔で言うと、少女はその日差しに照らされて綻ぶ花のように笑った。
青年は今時珍しい着流しで佇んでいる。対する少女が身に纏うのは、薄紅の単衣。どこか地に足のつかぬ、現実味を帯びない光景だった。
「わたし、お礼が言いたかったの」
「お礼?」
青年が首を傾げると、少女は更に柔らかく笑った。それに呼応するかのように、雲一つない蒼穹に向かって枝を伸ばす若木は枝葉を揺らし、隣立つほとんど朽ちたような古木はその身を軋ませた。
丘は、緑に満ちている。
一つ異質な枯れた古木も、もうそろそろ大地に還ることだろうと、青年はそう思った。
「歌。歌ってくれてありがとう。おかげでわたし、還れるわ」
一瞬の凪。
青年は暫しの間目を見張り、そして嬉しそうに、いいえこちらこそ、とお辞儀付きで返した。
「ずっとお聴きになっていたんですね。こちらこそ、そんな自己満足に付き合っていただけて光栄ですよ」
いいえ、と少女ははにかむ。
「とても綺麗な歌だった」
――本当はもう少し聴いていたいくらいなの。でも、これ以上のわがままは駄目でしょ?
お兄さんにも、ほら、向こうからこっちを見てるあっちのお兄さんにも、これ以上、お世話かけられないわ。
と、少女は丘へと続く坂道の途中から、困った顔で眩しそうにこちらを窺っている鮮やかな青年の方を、楽しそうにちらと見た。
いつから彼はそこにいたのだろうか。それにつられるように丘の上の青年もそちらへ目を向けて、この時季にはいないはずの者が来ていたことを疑問に思う。しかしすぐに、はたとその理由に気付き、同時に自分がこの場所にいつもより長居してしまっていることに気が付いた。
あ、と、間抜けな声が空に響く。
その、いかにもしまった、というばつの悪そうな顔を見て少女は笑い、丘の下の快活そうな青年は肩をすくめて、こちらまで聞こえはしなかったが、「あと少しだけだぞ」と言ったようだった。
その一連の様子に少女は屈託なく声を立てて笑いながら、悪戯っ子のように、青年にぱっと飛びついた。黒髪を揺らし、踏鞴を踏みながら慌てて支える青年にまた笑って、そしてそれに似合わぬ大人びた口調で囁いた。
――だから、最後にお礼だけはと思って。
「――ありがとう、わたしを何よりも愛してくれたひと」
ふ、と、このどこまでも澄んだ夏空に似合わない、儚い花の香りが強く漂う。
青年がその香から意識を眼前に引き戻した時には、もうそこに少女はいなかった。
ただ、青年の手には淡い淡い色の花弁が一片、残されていた。
青年はそれに満足げに頷くと、くるりと丘に並び立つ二本の木から背を向け、街並みを見下ろす。
――そして、テノールの声で歌を、歌った。
それは、哀歌ではなく。
古い、古い、もう誰も覚えてはいない、春の歌。
――桜花を讃えた歌だった。
過ぎた桜とエレジー
2007-2010 August
改訂 11.02.13