酔いは深々、月下の花弁よ酒に染まれ

 ひらり、ひらりと花のように舞うそれは、この冬の最後を告げる名残雪だった。置き土産のように、暦が春へと移り変わった今になって、思い出したように寒空は冷たい花弁を降らす。
 ――我らもこの雪と同じ、最後の足掻きをしているだけなのだろうか。
 ああいけない。この所悪い知らせばかりで気が滅入っているせいか、このような鬱々とした考えばかりが浮かぶ。
 そうしてずっと座敷に腰を据え、障子を開け放して宵の空を見遣りつつ、当て所のない思考を巡らせながらちびりちびりとやっている。すると、つっと掲げた黒塗りの杯に一片の六花が降り、溶けた。

 「雪見酒とは風流だねぇ、旦那」
 静かに戸が開く音と、僅かに笑みを含むその声にふと振り返れば、にやりと顔を歪ませる小柄な男が壁に背を預けて立っていた。いかにもわざとらしく旦那、などと陽気に呼びかけたその男の視線が、ふいと顔から杯へと逸れる。
「……高杉、自分も欲しいなら素直にそう言え」
 溜め息まじりにそう返しつつ徳利を持ち上げて見せれば、高杉は細い眼を更に細めて、そうこなくっちゃあ等といけしゃあしゃあと言い放つ。呆れて見せている間に、高杉はひょこひょこと傍に寄って来て、自ら酌をして勝手に飲み始めた。
 杯をことりと盆に置いて、宵闇に部屋の明かりでぼうっと浮かび上がる庭へ、再び視線を向けた。相変わらず雪は闇の中を舞っている。積もるような降り方ではなく、地に落ちては融けてゆくだけだが、見た所暫く止みそうにはない。
 気に入ったのか、そのまま全て飲み尽くす勢いで酒を乾していた高杉だが、大分酒が減った頃、ふとその手を宙に留めて口を開いた。
「僕はねぇ、桂さん。こんな名残雪なんかより、桜吹雪になりたい」
 ――ぱあっと咲いてぱあっと散る、いいじゃないですか。
 その言葉に桂は目を見開いた。見れば、してやったりというようなにやけ顔で、高杉はこちらを窺っていた。
 
 ――やられた。こいつ、わかっていやがった。情けない。そんなに、顔に出ていたのだろうか。この、暖かくなったかと思えば寒さがぶり返す今の季節のように、進退窮まる状況に少々参って鬱屈した気を起こした自分に、言い切りやがった。
「桂さんは昔から、悩み過ぎる癖だから。そんな時化た面して、こんな上物の酒、飲むもんじゃないでしょ」
 しかし、己が気落ちしている原因が、そうあっけらかんと言い放つ自分自身にもあるということを、こいつはわかっているのだろうかと、桂は恨めしく思う。つい、手で顔を覆ってしまった。
 この高杉と言う男の破天荒さには、桂は往年ほとほと手を焼いてきたが、今回もなかなかに酷かった。
 まさか、来島の説得に失敗したからと、脱藩してまで京に乗り込んでくるとは。
 己一人だけでも、長州者にはとんと厳しくなってしまったこの街に潜むのは、なかなかしんどいのだ。今の桂には、はっきり言って他人の面倒まで見る余裕がない。ましてやこの男、である。
 ――このまま放っておいたら、絶対何かしらやらかす。
 そんな確信があった。というか、こいつ本当に潜伏なんてことをやっていられるのか。やること成すことどれも派手な男だ、甚だ怪しい。高杉には高杉なりの思惑があって、こういう結果となったのはわかっている。だがしかし、だ。
 高杉が聞けば、怒るか拗ねるかしそうなことを考えつつ、桂は庭の方へと向けていた体を高杉の方へ向け直した。
 横目で見遣ると、降る雪は少しずつ弱くなっているようだ。やはり、庭の植木も地面も雪化粧するまでには至っていない。
 
「お前、国へ帰れ」
 殊更に真面目な顔を作って、叩き切るようにそう言った。
 桂の目と高杉の目が一瞬、ぴたりと合い、逸れた。高杉が、逸らした。
 途端に高杉は、今までの悪だくみが成功した悪ガキのような顔から、面を引っぺがしたかのように、拗ねた子供の顔に変えて、何やら唸りながら手元の酒を呷った。
「お前がこのまま京にいても、どうにもならん。とにかく、帰りなさい」
 畳み掛けるように続けてはみたが、高杉はぷいっと余所を向いてしまった。これは本気で拗ねたかもしれない。いや、笑った仮面を付けていただけで、最初から拗ねていたのかもしれなかった。
 だが、桂の方も本気なのだ。こんな所でこの男を潰してしまうわけにはいかない。
(事を急いてはならないぞ、高杉――)
 まるで根競べのような沈黙が長く続いたが、ふと高杉が溜息を一つ吐いて、その静寂は破られた。高杉は杯を置き、崩した胡坐の上に頬杖をつく。
「……わかった、帰りますよ」
 桂さんに免じて、と、渋々といった体で高杉は了承の意を述べ、すべてを乾してしまったらしい酒が美味かっただのなんだのと、暫く言いたいだけ喋ってから暇を告げた。
「ああ、待て」
 高杉が立ち上がり部屋を辞そうとした所で、それを桂が思い出したことがあって呼び止めた。そして何かをひょいと、高杉へ投げて寄こした。
「気に入ったんだろう? 京土産にあげるよ。道中にでも飲むがいい。帰り着く頃にはなくなるさ」
 ――脱藩の罪を犯したからな。帰り着いたら、暫く酒は飲めないかもしれないし。
 人の悪い顔をして桂が言うと、高杉もにやりと笑った。
「じゃ、桂さんの気晴らし相手料ってことで貰って行きますかね」
 笑ったまま軽く頭を下げて、そうしてそのまま今度こそ出て行った。
「まぁ、どちらにしろ、降り止めば季節は変わりますよ」
 最後にそう言い置いて。

 高杉はもしかしたら、本当に桜のような生涯を送るのではないだろうかと、桂は時々不安に思う。
 ド派手に咲いてド派手に散るも悪くはないが、桂が心配しているのはそういうことではなかった。
「花のように短命でなければいいがな……」
 知らず声に出してしまったのに一人ばつの悪い顔をして、誤魔化すようにあいつの相手は疲れるなどとぼやきながら、障子も開けたまま畳に横たわった。我ながら行儀が悪いなぁと思いつつも足先で盆を退けたら、乗っていた徳利が倒れた。まあ、どうせ中は空だし、構わないだろう。
 人のいない所では、存外この男も無精の気を出すことがあるらしい。
 そういえばと庭先の方に意識を向けてみれば、知らぬ間に雲が動いていた。さらりとした積もらぬ雪はまだ降り止まぬが、月が少し顔を見せている。
 冴え冴えとした氷輪に見下ろされて、桂はふと酒精によって忘れていた寒さを思い出した。一旦意識すると、どうも少々肌寒い。
 それと同時に、こうも開けっ広げにしたままぼんやりとしているのは、立場上よろしくないということも思い出した。
 ――そろそろまた、身の置き場を考えなければ。
 ああ、本当に厄介だ。しかしそう呟く唇は弧を描き、その目は生き生きとしていた。
「いいだろう。変えてやろうじゃないか、季節を」

 閉められた障子の向こうで、凍える月が雪を纏って凛と佇んでいた。

今回は珍しくいつの話か決めていて、一応、1864年2月(3月)頃の話、のつもり。
ある意味「宵は〜」の裏側……のつもりで書いたはいいが、なんか違うような気もする。
季節も同じ頃だけど、あっちは池田屋後だと思われるので、1年ほどずれてるんじゃなかろうか。
 
氷輪......冷たく凍ったような月。

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