――黄昏の、茜に輝く古い古い古都で、確かに自分は彼女に、本物の『歌姫』に出会ったのだと、信じている。

 あれは、自分がいったいいくつの頃の話だっただろうか。
 毎年ハロウィンの夜には、同じ年頃の子供達と揃って仮装をして街中練り歩き、可愛い悪戯という名のおねだり――時にはおねだりという名の悪戯もしたが――を無邪気にしていた頃のことだというのは間違いないけれど。
 そう、毎年最後に回るのは、街外れの古い、屋敷と言ってもいいほど大きな一軒家と決まっていた。いつもはそこはとても静かで、ともすれば空き家かと思えるほどなのに、ハロウィンの夜、その時だけは派手なパーティが中で繰り広げられているらしく、外からでもその華やかな空気が感じられた。
 ――今から考えれば、どうやら非常に多くの客人を呼んでいたようなのに、一切その人々があの屋敷に行き帰りする場面に行きあったことがないというのは、不思議というか、不気味な気がしないでもないが。
 だが、まあ子供にはそんなこと関係ない。
 我々には、毎年そこへ行けばちゃんとお菓子が用意されていて、黒髪金眼の眠そうな青年が面倒くさそうに、それでも愛おしげに笑いながら、皆一人一人にお菓子を配ってくれるという、それが一番重要なことだったのだから。
 そう、だから、あの時の自分はハロウィンに浮かれていて、彼女のことなんかすぐに忘れてしまったのだ。
 ――いや、違う。楽しかった子供時代の記憶と共に、この街へ置いて行ってしまっていたのだろう。

「やっべ、もうこんな時間じゃんか! みんなに置いてかれる!」
 夕暮れ時。それがこの街が一番美しく見える時間だと、幼心にも自分は知っていて、街を見下ろせる小高い丘の上からよく日が暮れて行く様を眺めていたものだ。
 昔から、どこかぼけっとしていて――と、よく言われた――自分には時間を忘れる癖があって、その、とある年のハロウィンの日も、皆と揃って仮装して歩く予定も忘れてぼうっと夕日を眺めていた。
 街の西側手には大きな山があって、おかげでここの日暮れは早い。そろそろ冷たく凍え始めた風に吹かれて、自分ははっと気が付いた。それで慌てて丘を駆け下りて、街のほぼ中央を流れるささやかな川にかかる橋――そう、そこで彼女に出会った。
 
 彼女は赤い煉瓦でできた橋の欄干に浅く腰かけて、哀しい旋律を歌っていた。
 
 風に揺らめく長く艶やかな髪、この時季には寒いだろう薄絹のワンピース――何より、その容貌はこの世の者とは思えないほど美しかった。
 それに、その、声。自分の心を惹きつけ、釘づけにして放さない、その透明な歌声。
 自分はいつのまにか走る足を止め、橋の上で彼女の歌に聞き惚れていた。早く帰らなければならないことも忘れて、そうだ、忘れるくらい夢中だった。
 ――だのに、すぐにふと違和感を感じた。そして、周りを見渡してやっとわかったのだ。自分の他に、彼女のことを見ている者は誰一人としていないのだということに。
 無視しているのではない。気付いていないのだ。
 橋は無人ではない。そう大きな街ではないが、この時間帯、忙しなくこの橋を行き来する人はゼロではないのだ。
 それが、皆が皆まるでそこには誰もいないかのように、何も聞こえないかのように通り過ぎて行く。
 自分にはそれが信じられなかった。彼女は路傍の小石か、それとも落葉か? そんなわけない。こんなに鮮やかな人、無視しようったってできやしない。
 自分にはそれが不思議でならなかった。そして憤慨していたと言ってもいい。誰もあの人がどんなに美しいか、わからないのだと思って。
 水面が朱色の陽を受けて、きらきらと眩く跳ねる。そこに落ちる音は、哀しくて、哀しくて、でも、自分を惹きつけて止まない、透き通った声だった。
 
「危ないわ、坊や。それ以上前に行ったら、落ちてしまう」
 
 初めはそれが、自分に掛けられた言葉だとは思いもしなかった。
 けれど、哀しそうな顔の彼女に肩に手をかけられて、自分は初めて気が付いたのだ。
 自分が、橋の欄干から身を乗り出していたことに。
 そう大きな川ではない。底も浅い。だが、橋の上から無防備に落ちれば、どうなっていたことか。
「う、わ……と、と、と! ありがと、ねえちゃん」
「いいのよ、坊や。……あなた、ちょっと耳が良過ぎるのかしらね」
「……え?」
 彼女は、何かをあきらめたような、寂しそうな顔をしていた。ぼうっとしていると、彼女は座っていた欄干から軽やかに腰を上げ、俺の肩を押して橋を渡らせた。
 陽はもう半分以上その身を沈めていて、辺りはいっそう深く深く色づいていた。紅に染め抜かれた落葉が、橋の段差に引っかかって吹きだまっている。それを踏む彼女の足音は、そういえば、なぜか聞こえなかった。
 橋を渡り切った所で、彼女は俺の肩から手を放し、高く赤い空を見上げながら言った。
「坊や、いいこと? あたしの歌なんかに気を取られてると、命がいくつあっても足りないわよ」
 そう言った時の彼女の顔は逆光でわからなかったけれど、きっと笑ってはいなかった。声は多少おどけた風ではあったけれど、自分自身の歌う歌が嫌いなのだと、直感した。
 ――そうしたら、居てもたってもいられなくなったのだ。
 
「俺、ねえちゃんの歌好きだぜ! でも、もっと楽しい歌、歌ったらきっともっと好きになるよ」
 
 精一杯背伸びをして、格好つけて、最後にはみっともなく腕をブンブン振り回しながら叫んだ。きっと、夕日に紛れて彼女にはわからなかっただろう――と信じたい――が、顔は真っ赤だったことだろう。
 彼女は呆気にとられていたようだけれど、その内くすくすと笑いだした。
 僅かな邂逅中、一番彼女が魅力的だった瞬間だろうと思う。
 そうして彼女は、俺を急かして家路に就かせた。
 いつまでも、いつまでも、振り返れば彼女はずっと大きくこちらへ手を振って、見送ってくれた。
 俺は何度も足を止め、振り返っては手を振り返し、笑っていた。
 
 
 
「ねえ、ねえちゃんはさ、歌姫なんでしょ!」
 
「……そう、あなたが思ってくれるなら、あたしはあなたの歌姫よ」
 
 
 

 ――ずっと、忘れていた。
 あんなにあの瞬間には輝いていた記憶なのに。
 でも俺はこの街に帰って来た。あの丘から夕陽を眺めて、相変わらず美しいこの古都を視界に収めて息をしたら、あの日の彼女を思い出した。
 きっと、また会うこともあるだろう。
 そうだ、子供達の仮装を手伝ってやらないと。
 
 ――ああ、この街は本当に変わらない。

 頭上で大きく左右に振り続けていた手を、あの暖かい笑顔をする少年が見えなくなった所で彼女は下ろして、そしてまた欄干に浅く腰かけ、機嫌よく鼻歌を歌いながら足をぶらぶらさせていた。
 そこへ近付く、黒い小さな影が一つ。
 
「おや、流れて来たローレライというのはあなたかな?」
「ええ。あら……可愛らしいカッツェ。もしかして、あたしを迎えに来てくれた?」
「……方向音痴なローレライが立ち往生している、と、主に蹴飛ばされてきた。まあ、そういうことだ」
「そう、それは有難いわ」
 
 二つの影は揃って、人の流れに逆らい、街外れの方へと歩み出す。
 
「パーティ、間に合うかしら……」
「……」
 
 ――日は、もうまもなく暮れる。

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