彼の瞳は、幼い頃は何の変哲もないヘーゼルで、彼自身もただの子供だった。
 彼の運命が変わったのは、そう、あるハロウィンの夜の話――。

「おいで、マヴロス」
 ――そこは、コバルトブルーの海を望む街だった。美しい空と海の青に彩られた白い街で、緑の実を付けた背の高い木が、至る所で潮風にその身を揺らしていた。
 その木々に囲まれた、小高い丘の上に建った豪奢な屋敷の側から、はしゃいだ少年の呼び声が聞こえる。
「にゃー」
 少年がしゃがんで両手を広げて待ち構えていると、そこに長く伸びた影を引き連れて姿を見せたのは、艶やかな黒い毛並みの猫だった。
「もう、どこに行ってたんだ? 一緒にシエスタしてたのに、起きたらいないし探したんだぞ」
 そう口では拗ねた風で少年は黒猫に語りかけるが、本気ではない証拠に笑った顔で彼はひょいと黒猫を抱き上げた。
 黒猫はヘーゼルの瞳を瞬くだけで、少年に素直に従ったが、その視線の先はどこか空を見つめているように見える。
 黒猫を抱いたまま、少年は立ち上がって茜に色付く空を仰いだ。雲の少ない晴れた空に眩しさを覚え、額に片手を翳す。そして、沈む夕日に照らされ黄金に輝く海の向こうしばし眺めやって、ふと首を傾げた。そのまま小さな呟きを残して、少年は踵を返した。
 
「――今日の空はいつもより紅いね」
 
 おとなしく抱えられている黒猫をなでつつ帰る彼の背で、少し伸ばした黒髪が、風を受けて揺らめいていた。

 さて、それはその日の夜のことだった。
「マヴロス? マヴロス! 出ておいで!」
 黒猫がふっと姿を消したのは、禍々しい月が君臨する夜だった。常ならば少年にくっ付いて、あまり勝手には出歩かない猫だったが、この日は夕方にも姿をくらましていたこともあり、少年は不審に思いながら黒猫を探していた。
 ――しかし何か嫌な予感がする。
 どうにも嫌な感覚が拭えない。少年の全神経が揃って、『今夜は外に出るな』と騒いでいるかのように感じたが、少年はそれでもこっそりと親の目を盗んで外に出た。
 ここ最近、この辺りに野犬が出ると聞いた。小さなあの猫が襲われでもしたら――と思うと、少年は居てもたっても居られなかった。
 少年は動物が好きで、今まで何匹も様々な動物を飼っては来たが、どれも少年のもとに長く居ついたことはなかった。
 いつもいつも、知らない内にふっと姿を消して、そして二度と少年の前に現れることはなかった。
 しかし、このマヴロスと呼んでいる黒猫は、今までで一番長く傍にいてくれている。
 ――今度こそ、大丈夫だと思ったのに!
 また自分の前から消えてしまうのか。
 不安にとりつかれた少年に気付いた者はいなかった。
 
 闇夜をかき分け、少年は黒猫を探す。
 ――しかし彼は、自分が闇の深い方へ深い方へと進んでいることに気がつかなった。
 いつしか大きく天にあった月が頭上から消え去り、少年を照らす明かりは、手もとのランタン一つになっていた。
 ――こんな空が見えないほど木々が生い茂り鬱蒼とした森など、近くにはなかったはずなのに。
 少年がおかしいと気付いた時にはもう、彼には帰り道すらわからない状態になっていた。
 辺りは一変していた。
 少年が見慣れた木々は姿を消し、見たこともないような大きく、そして曲がりくねった樹木の広がる森がそこにはあった。
 湿った土と落ち葉に隠された木の根に躓きそうになる。
「どうしよう……」
 ことの重大さに気付いた時にはもう遅い。少年は慌てて何とか引き返そうとしたが、動けば動くだけ、歩けば歩くだけ、自分のいる位置は更にわからなくなる。ついには大きな茶色の瞳に涙すら浮かんで来てしまって、少年は慌てて手で拭った、その時。
 
 ポッと、前方に明かりが灯った。
 
 驚いて息を呑んだ。
 ぼんやりと浮かび上がる中に、探していた黒猫がいた。
 驚きながらも少年は喜びと安堵にかけより、黒猫に手を伸ばそうとして、あっと彼は気づく。
 
 ――瞳が、金だ。
 
 確かに探していたのはこの猫で間違いないはずなのに。自分が結んでやったリボンもちゃんと付いているのに。
 ――黒猫の瞳は、自分と同じ色だったはず。
 猫を前にして戸惑う少年の目の端を、何かがかすめた気がして、少年は視線を猫からそらした。
 
 その不自然な明かりの中には、黒猫の他にも、『何か』がいた。
 
 『それ』は揺らめく人影のようであり、煙のようであり、とにかくはっきりとした像を結ばない。少なくとも少年の目にはそう映る。
 少年は驚きと恐怖に戦きながらも、果敢にも――だが、恐る恐る――その人ならざる者に声をかけた。
「……誰か、いるの?」
『……おや、君には私が見えるのかね?』
「!!!」
 少年は返答が返ってきたことに更に驚き、一歩後ずさった。しかし、彼は肝っ玉の強いたちなようで、こちらの話が通じるならばと、はっきりした像を結ばぬ影に思い切って近づいて、更に言い募った。ただ、足もとにすり寄ってきた黒猫は瞳が金色だったことも忘れ、しっかりと抱き上げ、お前だけが味方だと言わんばかりに抱きしめてはいたが。
「ここはどこ? あなたは誰?」
『ああ、やはり見えているのだね……これは珍しい、魔を見る眼か』
 矢継ぎ早に少年は話しかけるが、影はのんびりとしていて、どことなくはぐらかすようにしか答えてはくれない上、影に目があるのかどうか少年にはわからなかったが、何かおそらく少年を見ては自問自答を繰り返すばかり。
「ねえ、マヴロスの目の色を変えたのはあなたなの?」
 いくつもの問いを故意に無視、あるいははぐらかしていた影が、その問いを発したとたん、ん? と首を傾げて少年に答えを返した。
 その声は、影の表情は少年にはわからなかったけれど、そう、どこか笑っているようで。
『何を言っているんだい。その子の瞳が金になったのは――』

 君の瞳がこの夜に中てられて、魔性を見る金になったからだよ。
 ――その子は、君の姿を借りているだけだからね。

 ――え? と思った時にはもう、彼は見慣れた木立の中に立っていた。
 影はすっかりいなくなっていて、しかし足元にはやはり金眼の黒猫が座っていた。
 ただ、最後に風のさざめきに乗って、また笑った声が聞こえた気がした。

 ――こんな、あやかしの集う夜に仮装もせず出歩いてはいけないよ。
 君みたいな、力の強い子はね……。
 金眼は魔性の証。君はもう、人ではいられないかもしれないね。

 茫然と佇む少年を置いて、夜が、明けようとしていた。

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