その年、煉瓦の古都の夜はどことなく覇気がなかった。
 ――ああ、見た目には常と変わりはないのだ。今年も街は黒とオレンジに彩られ、煌々と、明々と輝いている。その様は相変わらず美しかった。
 しかし、そこには何かが足りない。数えてみたところで、練り歩く子供の数も例年と大して変わっていない――だが、確かに足りないのだ。
 ああそうだ――この時季なら毎年ここに集っているはずである、人ならざる者たちのうごめく気配がまるでないのだ。
 夜に集い、静かに、だが盛大にこの日を祝う彼らがいない。
 街の大人たちはそんなことには気づいてもいないが、幼い故に鋭い子供らは足りない何かに首を傾げ、しかし違和感を拭えないままに祭りの夜を迎えていた。

「主よ、いつまでも拗ねるな」
 街外れの一軒家で一匹の黒猫が溜息を吐いた。
 ――ああ駄目だ、毎年この時季になると溜息が多くなるが、今年はいつにも増して溜息ばかりだ。これでは幸せだって裸足で逃げていくに違いない。自分が欲しいのはただ、平穏という名の幸せだというのに。
 大きく古めかしい、屋敷と言っても構わないだろうその家も、勿論祭りに合わせて着飾っていた。毎年パーティのために――黒猫曰く、無駄に――趣向を凝らすその飾りは、今年も宵闇に映える自慢の出来で、家の主の魔女は大層ご満悦だった。――つい先日までは。
 なぜだか例年ならばざわざわと聞こえてくるはずの笑い声や話し声は、今年はさっぱりこの屋敷から響いてこない。代わりにしんとした家から時折聞こえるのは、くぐもった咳の音だった。
「だって……こんなのって、ない、わ……不、覚……」
 魔女は苦しげに、ごほごほと咳をしながら黒猫の声に応えた。戸棚からあやしげな小瓶を取り出し、水を入れたコップを手にテーブルへ近づく足取りは少々あやしく、またその顔は真っ赤で、声もかすれ気味――どこからどう見ても魔女は病人そのものだった。
 要は簡単な話、流行風邪を引いたのである。
 ――何、人ならざる者でも風邪なんぞ引くのか、と? 『死んでいる』モノならともかく、彼女らは須らく生き物なのだから、世間で流行れば引くというもの。まあ、ウイルスより弱い魔女と言うのもどうかと思わなくもないが。
 だがしかし、問題なのは彼女が風邪を引いてしまった、ということではない。なんとも情けないことに、人ならざる者たちの間でこの忌まわしきウイルスが猛省を奮っているのである。そしてそれがが大問題を引き起こしてしまった。
 なんとジャック直々に今年の集いは中止して、静養するようにとお達しが来たのだ。大ハプニングである。
 かつてのジャックならこんなことを言うなんてありえなかっただろうが、人とは変われば変わるもののようだ。どうも最近の彼は長年の放浪生活で性格の角が擦り減ってしまったのか、悪魔より狡賢い面よりも、孫を愛しむ祖父のような顔をよく見せる。ああ、まあただ単に、彼の魂が本当に年老いてきているだけかもしれないが。
 まあ中止のお達しは、パーティの会場を提供するホストがこの調子では仕方ないし、そのホスト代役が務まりそうな男――毎年準備にこき使われる狼男は、ベッドから起き上がることすらできないほど酷い状態である。招待客の大半も似たり寄ったりだと言うのだから嘆かわしい。かく言う黒猫も、実を言うとくしゃみが止まらない有様だった。
 革張りのソファに陣取って座る黒猫が、連続でくしゃみをする。つられたように、主の魔女も座ろうとしてテーブルに手をついたままくしゃみをした。
 
「「ああ、本当に情けない……」」

 祭りの夜は更け、仮初の異形のパレードは続く。紺碧のカーテンも、今宵ばかりは仄明るいオレンジに彩られ世界を包む。
 華やかにざわめきながら進む子供達の足取りは浮かれ、菓子を渡す大人達の顔も綻んでいた。
 
 そんな浮かれた街角、ビーチボール大のカボチャランタンの灯す明かりを横切って、それはふわりとコートの裾を翻した。
 足音はしない。ぼんやりとした明かりしかないが、それでもできる筈の影もない。
 それは手に古式ゆかしいカブのランプをぶら下げて、街外れの方へと煉瓦の敷かれた道を往く。整備され切っていないその道の赤煉瓦は所々浮いてしまっていて、踏むとカタカタと音がするはずだが、やはりその音もしなかった。
 それが通ったあとには、ただ植木がそっと葉を揺らすだけで、まるで風が吹き抜けた程度の痕跡しかなかった。

 ――ノックの音がする。まさか、もう子供達が来てしまったのだろうか?
 めずらしく家の主はこの夜に酔っていないのだが、どちらにしろ重症の魔女を応対に出すわけにはいかない。
 結局は今年も黒猫が相手をするしかないようだ。彼は、ふ、と小さく息を吐いたかと思うと、黒髪の青年へと変化し、屋敷に見合う重々しいドアのノブを捻った。
 
「Trick or Treat!」
 
「……ジャック?」
「驚いてくれたかい、ソロ? ああ、良いさ言わなくても。その目を見ればわかるからね」
 ドアの向こうに佇むのは仮装に身を包んだ街の子供ではなく、パーティ中止を命じたジャックその人だった。
 たっぷりと間を空けてから、青年は呆然と呟く。
「いったい何をしに来たんだ? パーティは自ら中止しただろうに。……それから、そのあだ名は……」
「うん? ソロモンのソロ、可愛いだろう?」
「……あえてそこを取るのか」
「……ネグロよりはマシだと思うが?」
「……」
 ――ああ話がそれた。というか、笑って誤魔化された。話ついでに言っておくが、ネグロも本名ではないが、ソロモンも数ある名前の内の一つというだけのものだ。一応ファーストネームではあるが、愛着はあまりない。
 ジャックの性格が丸くなったとは言うものの、少々捻くれているのはご愛嬌だろうか。
「それで?」
 諦めたように苦笑して青年はもう一度、突然の訪問者に尋ねた。それでも来客の対応に慣れ切った彼は、体の向きを変えてスペースを空け、明るい邸内へ入るようにと訪問者に勧めた。
 ジャックは一言お礼を言いつつ敷居を跨ぐ。
 そして思い出したように笑って言った。
 
「見舞いだよ」
 
 
 
 ――聞けば、彼は今日一日かけて、このサプライズ見舞いを様々な場所でかまして来たらしい。
 呆れると同時に、魔女も黒猫も笑いを堪えられなかった。その、茶目っ気にである。

 ――ああ、またノックの音が聞こえる。今度こそ、子供達だろう。
 聞くならば、あの台詞はやはり可愛らしい声の方がいい。
 
 
 
「Trick or Treat!!」
 

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