Farewell my Father, then hello Bloody God.

――ああ、これが運命だと、さだめだと云うのなら。
 
――甘んじて受け止めましょう。それが、どれほど残酷なことであれ。
 
――けれど、一つだけ……一つだけ、最後に答えてはくれませんか。
 
――どうして。
 
――どうして、僕の手はこんなにも紅いのですか。

 その鋭い刃物のような爪が、夕闇の奥から空を切り裂き、黒衣を纏う青年の体に紅の線を描く。
「あ――ああああぁぁぁぁぁッ!!」
 絶叫と共に、鮮血が迸る。朱金の夕陽を受けて鈍く輝く彼の金の髪に、点々と赤い紅い血が散った。次の瞬間、青年は切り裂かれた胸を押さえ、血に濡れた爪を掲げ艶然と笑う悪魔の眼前に否応なしに跪く。
 一瞬にして辺りにむせ返る色濃い血の臭いに、青年と共にいたシスターは、石化の呪縛を解かれたかのように息をすることを思い出し、青年に走り寄る。
「シス、ター……! 早く、逃げ……て……」
 それを言うと同時に、くぐもった嫌な音共に青年は血を吐いた。首に掛かっていた重厚な銀のクロスが血に濡れ、どす黒く染まる。
 
 ――血が、止まらない。
 
 人気のない細い街道、普段は通り過ぎる者もいない、寂れたその土の上に黒い影が踊り、鮮やかな緋色が散る。
「……ハーヴェイ司祭!? 司祭! 血が……っ!」
 シスターの口からは、悲鳴にも似た甲高い声しか紡がれない。青年――いや、まだ幼さの残る顔立ちをした司祭から止め処なく流れ出る紅い水を止めようと、彼女は髪を振り乱し、黒いスカートが血に濡れるのも構わず、必死で傷口を押さえようとする。
 だが、傷は深く、押さえたくらいではどうにもならない。シスターは半ば泣きながら、それでも何とか応急処置をしようとした。
「僕に構わず……早く……お願、い……」
 喘ぎながら、司祭は「逃げろ」とただそれだけを伝えようと、途切れる言葉を必死で繋いだ。傷を負った胸が熱い。熱くて熱くて堪らない。気がどうにかなってしまいそうだった。
「けれど!! このままでは……!」
「そんな、泣きそう、な、顔してないで……シスター、早く……!」
 ――彼は知っていた。
 そう、一目「彼女」を見た瞬間から何者であるのか、彼は悟っていた。
 あれは多分、かなり高位の者だ。――そう、ただの人間では、太刀打ちできないような。彼女らにとっては、自分達のような人間はただの獲物でしかない。あれは捕食者だ。
(――あれ、は、きっと「爵位持ち」だ……最悪……)
 だから、早くシスターを逃がしてしまいたかった。ただの道案内に付き添ってもらっただけの彼女をむざむざ見殺しにはしたくなかったから。
 
 ――しかし、彼は残酷な世界を掠れる視界の向こうに見る。
 
 悪魔はまだ、動かない。だが、艶やかな黒髪の美しいとすら形容できる化け物は、容赦などというモノを知らない。違う、知っていて、あえて知らぬふりをする。今とて、彼女にとっては、退屈な日々を紛らわす暇潰しの遊びでしかないのだ。せっかく見つけた玩具に、遠慮などしようとも思わない。
 そして、氷のように鋭く、冷たく、美しいその女――女吸血鬼はさもつまらなさそうに肩を竦め、眼前に這いつくばる人間を見下した。
 
「あぁ――脆い、脆いのう。名うての吸血鬼狩りと聞いたが、やはり人の身は軟いな」
 
 司祭は吸血鬼を専門に追う退魔師だった。今まで幾度となく、血に飢えた吸血鬼達と闘い、そして、勝ち抜いてきた最強とも謳われる吸血鬼狩りだった。
 しかし、そんな彼をもってしても、この吸血鬼にはまるで赤子同然に弄ばれ、歯牙にもかけられない。――逃げることさえ、許されない。
「だが、今ので死ななかった辺りはさすがか。まあ、致命傷だがの」
 女吸血鬼は嘲笑ともとれる冷たい笑みを浮かべ、爪にこびり付いた血を振り払いながら言う。そして、ふと今まで見向きもしなかったシスターの方を見やった。その薄氷の青の瞳から放たれる氷のような眼差しに、シスターは本能的に後退する。
「ッ!? 駄目、だ……! 逃げて!」
 その視線に気付いた司祭は、焦るように涸れかけた声を搾り出し、シスターに再び逃げるよう精一杯の声音で叫ぶ。
 その時、シスターの方を振り返ったハーヴェイ司祭の胸元で、クロスと何かがぶつかる小さな、しかし重い音がした。
 司祭はその音に肝を冷やす。しかしそれは杞憂だったようで、吸血鬼にはその音は聞こえなかったらしく、それに対する反応は皆無だった。
(これは、最後の手段だ……焦っては駄目だ……)
 彼は胸を押さえる手を固く握る。
 ハーヴェイ司祭とシスターとのやり取りを黙って見ていた吸血鬼は、暫し何かを考えるようなそぶりをする。しかし、答えはすぐに出たようで、唐突にシスターの方を指差して告げた。
「そこの娘。そこの男に免じて逃がしてやる。お前はこやつより更に脆そうだしの」
 ――それは、単なる気紛れなのか。それとも何か思惑があるのか。
 悪魔の思いがけない言葉に、二人は刹那の間思考が止まる。だが、二人は間もなくその言葉の裏――本当の意味を悟ってしまった。
「……ッ! ぃ……や……、いや! 嫌です! 司祭を置いて逃げるなんて……!」
 ――シスターは逃がす。つまり、司祭は逃がさない。
 吸血鬼は完全に獲物を狙い定めていた。
 辺りの木々が風に戦慄く。黄昏時の朱色が、暗く黒く染まり始めていた。
 そして、シスターは震え慄きながらも、気丈に叫ぶ。――ハーヴェイ司祭を置いては逃げない、と。
 
「ふん? ならば眠るがよい。我は女の血は嫌いだ」
 
 その言葉が、嘘だったのか真だったのかはわからない。多分、単なる気紛れだったのだろうと司祭は思う。
 けれど、彼女が少し顔をしかめただけで、なんとも軽くその言葉を吐いたのは事実。そして、何某かの術でシスターの意識を奪い――奪うだけで、殺すどころか一滴の血さえ流させなかったのも間違いない真実だ。
 そして何とも呆気なく、シスターは地に伏した。
 司祭はただ茫然とへーゼルの双眸を見開き、シスターが崩れ落ちてゆく、一連の動きを眺めていることしかできなかった。彼に余力はもう殆ど残ってはいない。恐いとか、悔しいとか、哀しいとか――様々な感情が渦巻く心は、動けと身体に命令しようとすれども、それが巧く繋がらない。ただ倒れていくシスターを、受け止めようと伸ばした腕さえ届かなかった。
 彼がしていたのは、ただ茫然と見ていることだけだった。
 
 そうして、吸血鬼は長い黒髪に指を絡め、上機嫌な様子で、再び美しく、冷たく、酷薄に笑う。
 地に膝を付き、真っ赤な血を流す一人の人間は、もう睨む力しか残っていないのだろう。そう考えた彼女は彼に近付き、襟元を掴み無理やり立ち上がらせるように引っ張った。苦痛にうめきながらも彼は立つ。
「さて、邪魔な娘も眠ったことだ。流れ出て干乾びる前に、血を頂くかの」
 どこか恍惚とした表情さえその美しい顔に浮かべ、吸血鬼は司祭の首筋に唇を寄せて歓喜に笑う。
 この時のことを、青かった吸血鬼の瞳が紫がかり、そして緋色へと染まって行く、その美しくもおぞましい様を、ハーヴェイは一生忘れないだろう。
 
 
(覚悟を、決めよう)
 
 
 そして。
 
 白い牙が肌を貫く――その、一瞬前に。
 突如として女吸血鬼は驚愕に慄き、司祭を突き飛ばし左胸を押さえる。
 
 その彼女の左胸――心臓には銀の短剣が突き刺さっていた。ズブリと深く、柄まで。
 銀に煌いていた刃は血に濡れ、肉に溺れ、その光はこちらには届かない。
 ――それは、ハーヴェイ司祭が残った僅かな力で、それでも渾身の力を振り絞って、刹那の隙を狙って、上着の内ポケットに隠していた物を突き立てた結果だった。
 いくら高位の吸血鬼といえども、心臓に銀の剣を喰らえば死にいたる筈と、司祭は密かに機会を窺っていたのだった。
 しかし、この期に及んで呆気ないと言えば、呆気なかった。こうも呆気なく事が済んでしまうとは、彼は思っていなかった。だからか、何か嫌な予感がした。
 そして、彼はふらつきながらも傷を押さえ、自力で立ち上がり彼女を睨みつける。
 
 ――そして。
 
 悪魔は黒い哄笑を持ってそれに応えた。
 
「――はは、あははははは!! なんと、愚かなことよ……」
「な、に……?」
 彼女は片眉を上げ、忌々しそうに銀の短剣を自らの胸から引き抜き、無造作に地に投げ捨てた。後から後から湧き溢れる真っ赤な血を青白い手で押さえながら、それでも彼女は、にやっと笑った。
 不審な吸血鬼の言動に、司祭は警戒を強める。
 ――何か自分は重要なことを見落としているのだろうか? ああ、それにしても頭が回らない。思考が散る。血が、足りない。
「……自ら、我が後継者となろうとは……!」
 嫌な音を立てて、彼女は血を吐いた。手足の先はもう既に砂のように崩れ始めている。だが、その言葉は止まない。
 ハーヴェイ司祭は、ともすれば散り散りになる思考を掻き集め、必死にその意味を考えた。
 自分は何かを忘れている。何か、大切なことを忘れている。
 さて、自分はなぜ、こんなにも動揺しているのだろうか。
 自分は、何かを、知っていた、気が、する。
 そうだ、あれ、は――。
 
「こうけい、しゃ……? ……! まさか……!!」
 
 ――そう、世界はどこまでも残酷だった。
 
「……我は、伯爵。爵位ある吸血鬼……わからなかったとは、言わさぬ」
 
 そうだ、自分は知っていた。彼女がかなり高位の吸血鬼だということを、きっと上から五指の指に入るだろう能力の高さを誇り、全ての吸血鬼達を統べる「貴族」達の一人であろうということを。
 そして、彼ら彼女らについての、とある伝説があることも知っていた。
 高位の吸血鬼を滅ぼす方法は、ただ一つのみ。それは、心臓に銀製の杭を穿つこと。
 しかし、本当の意味で吸血鬼を消滅させることはできない。
 なぜなら、心臓を穿たれた吸血鬼は死に行くが、その吸血鬼としての能力は――銀の杭を突き立てた者に、そっくりそのまま移るという。
 そう、それは代替わりの儀式に他ならない。古くなった器と心を捨て、新しい器と心を得てそして、吸血鬼の血は脈々と受け継がれて行く。
 
 ――さて、今自分は何をした?
 
「ま、さか……あの話、本当だって言うのか……!?」
 血が足りないという理由だけではなく、ハーヴェイは恐怖と驚愕で一気に血の気が引き青褪めた。まるで正反対に、女伯爵は最期の花を咲かすかのような、美しい笑みを湛えた顔で言った。
「それ、は、己の身を持って知るがいい」
「――ッ!」
 息を呑んだハーヴェイの口元を掠めるように、吸血鬼――だった女の唇が一瞬、触れた。
 それは、淡い口付け。
 それがキスだったとハーヴェイが気付くより前に、砂のように、灰のようになって、橙と紺の混じる空へ風と共に消え行こうとする彼女は、もう一度だけ綺麗に笑って最期の言葉を囁いてから、塵になった。
 
「ハッピーバースデイ、吸血鬼伯爵」

 僕――私の神はもういない。
 あの日、私の神は紅の鬼神と取って代わった。
 あの日、一人の人間が死に、一人の吸血鬼が生まれた。
 もうここには敬謙に神を敬い、祈りを捧げる司祭はいない。
 もう誰も私の名を呼ぶものはいない。
 
 後悔など、とうの昔にすること自体を諦めた。
 ――それでも。
 時たまこの血染めの両手を見ては、思い出す。泣きたくなる。叫びたくなる。
 それでも。
 
 
「アール、行くぞ!」
 
 
 ――この運命を全うしてやろうではないか。
 
 
「ああ、行こうか、チェスター」

――神よ、聞こえるか。
 
――あれが運命だったと、さだめだったと云うのなら。
 
――抗わずに真正面から向き合って、受け止めよう。
 
――無知で愚かな僕は消え、絶望を知った私が残った。
 
――もう、その私はあなたの御許にはいないけれど。
 
――どうか。
 
――どうか、あなたとの別れに最後の祝福を。

さらば我が父なる神、そしてごきげんよう血染めの神様。

あとがき(?)
時間と気力があれば、続きを書きたいと思ってます。
この話では最後にちょっと名前が出ているだけの子ですが、主役はハーヴェイこと伯爵(アール)ではなく、チェスター君です。(笑)
いつか書けるといいなぁ……。

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