別離色の雨

 その日は朝から雨だった。
 煩いほどに地を打ち鳴らし、いつまでたっても降り止まぬ雨粒を見て、沖田はつまらなさそうに頬杖をついたまま溜息を吐いた。
 ――どうも先程から屯所内が騒々しい。せっかくの非番だというのに落ち着かない。そういえば、廊下をあの人が歩いて来る音と気配もする。
 沖田は後頭部で一つに結わえた髪の先を手に取り、また一つ溜息を吐く。少々癖のある猫っ毛が、心なしか好き勝手な方に跳ねているのは、辺りが湿気ているせいだろうか。彼はそれが気になるらしく、止むことなく手で弄りつつ呟く。
「あーあぁ、私も土方さんとか一さんみたいな真っ直ぐな髪がよかったなぁ」
 昔、漆黒の長い髪を高く一つに括り、俊敏に立ち回る土方を見て不覚にも――今にしてみれば全くもって本当に不覚だ――「綺麗で格好良い」なんぞと思ってしまったから、気紛れに自分の髪も伸ばしてみた。
 だが、どこまでも真っ直ぐな質な土方の髪とは違い、沖田の髪は伸ばせば伸ばすほど毛先が巻いてしまう。もう、随分と前にそのことは諦めたものだが、一度ここまで伸ばしてしまったものをばっさりと切ってしまうのも何だか癪だ、と沖田は思う。
 ――いっそ、平助ぐらいのくせっ毛だったら踏ん切りもつくんだけどな。
 などと胸中で呟いてみたりもするが、そもそも自分がただ意地っ張りなだけだというのは沖田にも自覚がある。前にこれとほぼ同じ内容のぼやきを当の藤堂に言ってしまった時など、腹を抱えて爆笑されてしまった。曰く、俺は俺でこの爆発頭に悩んでんだから、土方さんに負けたみたいで悔しいのはわかるけど、総司も諦めてその髪と付き合いなよ、だそうだ。まあ、事実彼の髪の毛は四方八方に跳ねるばかりで、どうやっても落ち着かないことは仲間内では有名な話だ。確かに、あれは大変かもしれないと今更ながら沖田は考える。
 しかし、なんとはなく悔しいのは収まらないわけであって、やはり鋏を入れる日は暫く来なさそうである。

「おい、総司」
 そんなとりとめもない――どうでもいい――ことで沖田が思考を延々と廻らせていると、部屋の障子の向こうから土方の声がした。
 ――ああ、これは仕事時の声色だ。
「何ですか土方さん。私、非番なんですけど?」
 暗に非番返上で仕事などするものかと含ませつつ、沖田は障子を開けて部屋に入って来た土方の方に向き直った。しかし、どうにも重い雰囲気を引き摺っている土方に嫌な予感がひしひしとする。
「先刻、監察方から報告が入った。総司、悪いがお前に出てもらおうと思う」
 冷静な声が、きっぱりと告げた。誰かに聞きとがめられることを恐れたのか、主語のすっぽりと抜け落ちた科白だったが、沖田にはそれで十分だった。

「……ああ、あの子……黒だったんですね」
 返答までに刹那、間が空いてしまった。しかしそれは、覚悟していた筈の言葉だったのだ。それでも動揺が僅かでも表面に現れてしまったのは、どこか沖田の心の奥で否定していたからだった。
 ――可愛がっていた新米隊士が、どこぞの藩からの間者だなんて。
「……総司」
「ええ、はい、わかってますよ。わかりました。……私が、ケリを付けて来ます」
 無理やり作ったような笑みを顔に貼り付けて、沖田はゆっくりと立ち上がった。
 傍らに立て掛けてあった大刀と脇差を腰に差し、それから傘を手に取ろうとしたが、すぐにそれは無駄なことと思い当たって取り止めた。どうせ、刀を振る段階になれば投げ捨ててしまうのだ、傘を差していく意味などない。
 不自然に宙で動きを止めた沖田の腕を見て、土方は眉を寄せた。
「今から、行くのか」
「ええ、早い方がいいでしょう」
 僅かな躊躇いを土方に見とがめられて、沖田は苦笑を洩らす。そして、今度こそ穏やかで綺麗な笑みを浮かべて、出立を告げた。土方はそれを腕を組み、眉間に皺を寄せたまま聞いていた。

 ――確かに沖田はあの新米隊士のことを可愛いと思っている。だが、沖田の中の優先順位ははっきりしていた。
 この、新選組を守ることが、第一。
 それが例え、己の身であったとしても斬り捨てて、この――自分達の――新選組を護り抜くことこそが、至上。
 ならば、するべきことは自ずと決まってくる。
「――例の、遊郭だ」
 屯所の出入り口まで来た所で、一緒にそこまで付いて来ていた土方が静かに囁いた。
「承知」
 一言、了解の意を告げると、沖田は慌しい屯所の喧騒に紛れてひっそりと土砂降りの街へと踏み出した。
 ――永久の別離の言付けをその胸に抱えて。

ああ、落ちる雫は、裾を濡らす水は、何色だったろうか。

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