空が鈍く暗い灰色に淀んでいる、そのことを、日常だと思う日が来るなんて考えたこともなかった。だって、世界は不変で、適度に平和で、崩壊の足音なんて夢の中にさえ聞こえては来なかったから。
 けど、それもただの幻想に過ぎなかったんだね。
 僕はもう知ってしまったよ、この現実を。祈りと願いを届けることしかできやしない僕には、足掻くことすらできないけど。
 ――「青い鳥」は知ってしまったよ。
 この世界の行く末を。


六花に終わる街


 荒廃した灰色の街に、同じ色の空から白き花のような雪が舞い落ちる。
 雪――六花ともいっただろうか。確かに、その結晶は美しい六枚の花弁を持った花のようだが、散り行くさだめの花よりも更にその命は儚く短い。この地で本物の花が育たなくなってもう久しいが、この街にはこの白い花がよく似合う。
「この街も、もうダメかな……」
 一際背の高い、傾いたビルの屋上に鮮やかな青の色彩が佇んでいた。
 モノトーンの世界に、一点の鮮烈な青。
 腰まであろうかという長さの青い髪と、首に巻いた長いマフラーを吹き荒ぶ風に躍らせながら、降り積もる雪を振り払いもせず青年は街を眺めていた。
 その瞳には色濃い哀しみと憂いが宿っている。彼はそれを隠そうともしない。ただ、ひたすらずっとその場に立ち尽くし、ある一点を見つめているようだった。
 
 一向に雪が止む気配はない。
 今まで、深々と降り積もる雪の僅かな音しか存在しなかったこの空間に、控え目な靴音が響いた。乱れることなく淡々と響き渡るその音の主は、どうやらビルの非常階段を登って来ているようだった。
 青年は鈍い動作で背後を振り返った。
「ここに居たのか、セレス」
 やって来たのは、青年――セレスより幾らか年上らしき男性だった。彼もまたセレスとは少し違う色彩だが、この街には眩し過ぎるほどの青を纏っていた。
「――ター……コイズ……?」
 その動きと同様、鈍い反応しか返さないセレスに、ターコイズは苦笑を漏らしながら近付き、彼の上に積もった雪を払った。ついでに小脇に抱えていた上着を肩にかけてやる。
「このままじゃ、お前いつか凍死するぞ」
 そう呆れたようにターコイズは言う。
 しかし、セレスはその忠告を聞く気がないのか、一連の動作をぼんやりと眺めた後は、のろのろとターコイズから視線を外して降る雪を見つめていた。ターコイズもあまりとやかく言うつもりはないようで、セレスの横に立つとそれきり沈黙してしまった。
 辺りに再び静寂が降りる。
 
 この滅亡へと進む世界では、光が射さず、随分と前から昼夜の境がなくなっていた。
 だが、時だけは今だ刻々と進む歩みを止めてはいない。そしてきっと、最期の瞬間、世界が消えるその刹那まで、止まることはないのだろう。世界の終わり――生けるもの全てが死に絶え、時を数える者がいなくなったその時、時は初めてその意味と役目をなくして永遠の眠りへとつく。
 ターコイズが姿を現してから、どれほどの時が過ぎただろうか。
 雪は相変わらず宙に躍り、風は烈と凪を繰り返していた。薄暗い灰色の街には、朽ちかけた廃墟の影が並ぶばかりで、生き物の気配は全くしなかった。
 ふと思い出したように、セレスは寒さに肩を震わせて口を開いた。
「……ここももう人なんて殆どいなくなって、この街ともお別れなんだなって思うとさ……何か、最期まで見届けないとって思って……」
 そう呟いて、小さく寂しげに笑う。
 その様子をターコイズは横目で見やった。そのあまりの痛々しさに、自分が伝えるべき事実を、口にすることを迷う。
「そういえば、何か用があって来たんだろ?」
 ターコイズの僅かな躊躇に、セレスが気付いてしまった。さすがにここまで来ておいて今更何でもない、とは言えない。用を言うよう促すセレスに、ターコイズは気乗りしない重い口を無理やり開けた。
「……あのジイさん、さっき逝っちまったよ」
 あのジイさん――この街の最後の住人。妻も、子供も、孫さえも先に逝ってしまう中、独り生き残ってしまった孤独な老人だった。一人、二人と住人が減っていく中、齢六十を越える老人が最後の一人となってしまったとは、何かの皮肉のような気がしてならないが、彼はそれでも懸命に生きていた。
 その老人のことを、セレスとターコイズは暫く前からずっと気にしていた。この街はもう人の住める環境ではなくなっており、老人の一人暮らしなどそう長く続く筈がなかった。
「――そう、か……」
 覚悟はしていた。だが、たかが覚悟一つした所で悲しみが消えてくれるわけではない。
 セレスは一度俯き白い息を吐き出すと、動揺を押さえ切れていない面を天に向け、静かに祈りの言葉を囁いた。ターコイズもそれに倣うように灰色の空を仰ぎ、黙祷を捧げた。――祈りを聞き届ける神なんていないことを、悔しいほど思い知っていたけれど。ただ、あの老人への手向けになればそれでいいと、そう、思って。
 ――神よ、もしこの嘆く声が聞こえるなら、この哀しみのウタが届くなら――。
 
 いつの間にか降る雪はその量を減らし、積もりかけていた路面の雪も少しずつ溶け始めていた。日が射すことがないため陽光で溶けてしまうことはないが、それでもこの荒廃した世界では、地熱だけでこの儚な過ぎる花は溶け去ってしまう。
 ターコイズが天を見やったまま、ぽつりと言葉を零した。
「――セレス、この世界はもう、長くない。生命なんて、あと数えるほどの時しか生きてはいられないだろう。……この世界に残っている青い鳥は、あと、俺と、お前だけだ」
 セレスがはっと何かに気付いたかのように、慌ててターコイズの方を向いた。
「皆は!? 他の皆はどうしたの!?」
 そう勢い付けて訊ねる。
 ターコイズはゆっくりとセレスに向き直り、彼の青い双眸を真っ直ぐに見つめながら言った。
「行ったよ」
 セレスが目を見開くのを見詰めつつ、ターコイズは重ねて告げる。
「行ったよ、この世界を出て、それぞれ違う世界へ」
 一際強い風が、二人の髪とマフラーとコートの裾を翻させながら、彼らの間をすり抜けて行った。
「……そっか……。皆、もう行ってしまったんだね……」
 寂しげにセレスはそう呟いた。
 そうする合間に、ついに雪は完全に止み、空の灰色が少しだけ白くなった。だが、分厚い雲が晴れることはなかった。――もう二度と晴れることはないのだろう。
 ターコイズは僅かに残る雪の残滓を肩から振り払ってから、更に言う。
「俺達も、もう出て行かないと」
 音のない世界にその声はよく響いた。
 ターコイズは真剣だった。確かにこの世界には愛着がある。長年見守って来た、親心のようなものすらある。だが、この世界の寿命は――もう、尽きかけている。自分達にはどうすることもできない。このままここに留まっていても、運命を共にするだけ――。
 しかし、セレスは外界へと旅立とうと手を差し伸べるターコイズに、躊躇を見せた。
「僕は、まだ行かない。まだ――離れられないよ……」
 そう、首を横に振り、自分は残ると言い張ってそこを動こうとはしなかった。
「セレス……」
 小さな溜息が、一つ。
 
 天を覆う雲がまたその身を厚くしてきていた。
「セレス――セレスタイト。駄目だ、ここにこれ以上いるわけにはいかない」
 ターコイズはそのよく通る声で、静かに告げた。
「けど!」
 セレスが反論しようとするのを止め、更に続ける。
「わかっているのか? セレスタイト――『天青』、それがお前の名であり、俺達、青い鳥の長の名だろう? 青い鳥の役目、忘れたとは言わせないからな」
 焦りか、苛立ちからか――声色が僅かに硬く変わった。どうあっても、これ以上ここに居るわけにはいかなかった。崩壊の足音が忍び寄るその音が、ターコイズには聞こえていた。
 セレスは哀しみの色濃く浮き出た顔で、小さく頷き答えた。
「……わかってるよ、忘れてなんかないさ。僕らに幸せを請う人すらいない、滅び行く世界なんかにいたって仕方ないってことも、わかってる。自分がどれほど無力かということもね」
 モノトーンの街にいつまでも佇む彼らを嘲笑うかのように、灰色の廃墟のどれかが崩れ落ちる音が木霊する。彼らが居るこのビルも、崩壊を待つのみの身となっていた。
「セレスタイト」
 ターコイズは待った。
「…………わかった。行こう、外へ」
 哀愁の篭った溜息が、二つ重なった。
 
 再び灰色の空からは白い雪が降り出した。それはまるで、この二羽の青い鳥へ送る最期の餞別のようであり、また、もう目の前まで迫った終わりの時への慟哭のようだった。
 
「さようなら、我らが故郷。今までありがとう……お休みなさい」
 
 そして、終わり行く灰色の世界に幕が下りる。
 青い羽根が空に舞い、すぐに灰色の街に飲み込まれていった。やがて、世界から色彩が消え、灰色の世界は色のない世界になる。
 
 
 そしてきっと最期の時まで、六花の花は降り止まない。

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