第二幕

 霧の渦巻く薄暗い森を幼い少女が一人、猫のぬいぐるみを抱えて歩いている。
 腰まで届こうかという長さの波打つハニーブロンドに、不安にゆらゆらと揺れるその瞳は碧玉の色。
 少女は涙の浮かぶその目を凝らして、何かを必死に探していた。時折、その場にへたり込んでしまいそうになるのを堪えて、落し物を捜すかのように、茂みを掻き分け、木陰を覗く。
「……見つからないね、ネコさん」
 少女は地面から大きく競り上がった木の根に座り、休憩をしながらか細い声でぬいぐるみへ話しかけるかのように呟く。暗く不気味なこの森に、少女の声はよく響く。自分の声に少し驚いて少女は辺りを見渡し、一つ小さな溜息を吐いた。
 
 ――いくら探しても、見つからない。
 
 やはりここにもないのかもしれない。
 少女は頭を垂れて、今にも震えだしそうな腕で、猫のぬいぐるみを強く抱きしめた。
 
「何をお探しだ? 嬢ちゃん」
 落ち込む少女の下へ、突然前方の巨大な木の上から声が降って来た。
 少女はその声に驚き、反射的に立ち上がった。だが、自分が木の根に腰掛けていたことを忘れ、後退りをしようとして足を引っかけ尻餅をついてしまう。転んだ拍子に瞳を濡らしていた涙は、どこかへと吹き飛んでいた。
 その原因の声の主は少女の様子を見て、苦笑をして頬を人差し指で掻いてから、全く音を立てずにその木の上から飛び降りた。随分と高さがあったはずなのに、易々と飛び降りる様はまるで――猫。
「悪い悪い、そんなに驚くとはね。――立てるか?」
 そう言って彼は少女に手を差し伸べ、小さな手を握り取って引き起こした。その間、少女の視線は彼の頭部を捕えて離さなかった。凝視していたと言ってもいい。それに気付いた彼はクスクスと小さく音を立てて笑いながら、立ち上がった少女の汚れたスカートの裾を軽く払ってやる。
 それが終わっても、少女の目は彼の頭部から離れなかった。
「どうした?」
 青年はやはり笑いながら、少女にわざとらしく訊いた。
「お兄ちゃんは、ネコさんなの? お耳――それに、しっぽもあるんだね」
 全くもってその通り、猫のような青年には赤とも紫とも表現しがたい不思議な色合いの猫の耳と、縞々模様の長い尻尾が、それが自然であるかのようにくっ付いていた。
 青年は今度こそ心から面白そうに笑った。
 ――思った通りの返答だ。やはり、幼い子供というものは反応が素直だ。これだから、構うのが楽しくて仕方ない。
 青年は声を上げて笑いながら、ただ純粋に自分を見上げる少女に言葉を返す。
「さあ、どうだろうな? 猫かもしれないし、猫じゃねぇかもしれない」
 少女は心底不思議そうな表情で、首を傾げた。青年にはそのことすらも予想通りで、更に笑みを深める。そして、そこでふと当初の目的を思い出して、自分を見つめたままの少女に最初とまったく同じ質問をした。
「で、嬢ちゃんはこの森で何を探しているんだ? あんまり深くまで行くと迷うぞ」
「…………」
 また一段と濃くなった霧の中で、少女は俯いて、しばらく沈黙してからまた、泣きそうな顔をしてぽそぽそと呟いた。
 
「……なまえ。名前を、さがしてるの。なくしちゃったから」
 
 抱えていた猫のぬいぐるみを、ぎゅっと強く抱きしめて、顔は俯けたまま少女は更に言う。
「ネコさんにもちゃんと名前があったのに、なくしちゃった。だから、いろんな所をまわって、さがしてるの」
 霧深い森に、一時の静寂が下りた。
 少女は相変わらず泣きそうな顔で俯いて、青年は何とも形容しがたい表情で沈黙していた。しかし、その青年の金の瞳はその間中ずっと、何かを思案しているようだった。
「名前、ねえ……。嬢ちゃん、残念だがこの森には嬢ちゃんの名前はないだろうよ」
 結局、先に沈黙を破ったのは青年だった。
 青年のその答えを聞いて、少女は更に悲しげな顔をしたが、辛うじてその大きな瞳から涙がこぼれることはなかった。
 少女の雰囲気が沈んだのを見て取って、青年は少し困ったような調子で付け足す。
「……けど、このまま「役」がないのもまずいな。仕方ないから仮初の名前を付けてやるよ」
「え?」
 驚き目を丸くする少女に向かって、青年は大袈裟に両手を広げて見せ、「猫」にふさわしい笑い顔で言った。
「そう、今から嬢ちゃんの名前はミラージュ、「蜃気楼」だ」
 それを言い終わる頃には、青年は足下からだんだんと透けて行き、少女――ミラージュには、彼がもう去ってしまうということだけがわかった。
「あっ、待って! お兄ちゃんありがとう! 本当にありがとう!」
 ミラージュにはそれだけしか言えなかった。
「早いとこ名前を見つけて、蜃気楼から本物になるんだな!」
 それだけを言うと、青年は辺りの霧に飲まれるように姿を消した。
 彼は誰だったのだろう。ミラージュは彼の名前を訊きそびれたことにがっかりしたが、今更どうしようもない。清く諦めて、ミラージュはこの薄気味悪い森の出口へと歩みを進める。
 やがて、ミラージュも霧に紛れて見えなくなった。
 
 
 
 
「――けど、アイツがいる限りは蜃気楼のまんまだよなぁ」
 
 ――その小さな呟きを聞いた者は誰もいない。

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