第一幕

「だああぁぁぁぁっ! 遅れたぁぁっ!!」
 長閑な田舎の風景をぶち壊しにする、妙な青年が砂埃を巻き上げながら道を走って来る。
 右手には金の懐中時計、左手にはなぜか雨傘を携え(今日は清々しいまでの晴天だった)、どこか堅苦しい印象を与える洋服をきっちりと着込んだ彼は、よほど焦っているのか、なりふりかまわず恐ろしい速さで、道をアリスのいる方へと向かって来ていた。
 だがしかし。
 今まで彼は何をしていたのやら、服装は折り目正しくきっちりしているが、髪がボサボサである。それで全てが台無しな雰囲気であった。――大方、寝坊でもしたのであろう。
 とにかく青年は急いでいた。
 ――自らの役目を果たすために。
 
 それまでアリスは、暖かい木漏れ日が射す大きな木の下で気持ちよく昼寝をしていた。今日は、勉強しろ勉強しろといつも煩い姉もいないことであるしと、思いっきり彼女は羽を伸ばして惰眠を貪っていた。
 だが、こうも目の前を煩く通り過ぎられたら、いくら何でも目が覚める。
 彼女は目元を擦りつつ、その騒音の元凶を見やった。そう、それは、日常に飽き、目新しいものに対しての期待という名の炎を灯した瞳で。
「あ、ハンカチ落とした……」
 青年の懐から一枚の布がひらひらと風に舞い、地面へふわりと落ちた。
 それを拾おうとした時、青年の頭部を見た彼女は刹那驚愕に目を見開いた。絶句というか唖然というか。確実にこれまでの人生で一番アリスは驚いた。
「え、あれって…………うさぎみみ……兎耳!?」
 なぜなら、キラキラと光に透けて輝く白銀の髪の間から、白くて長いふわふわしたもの――どこからどう見ても、それは兎の耳だった――が覗き出ていたからだ。
 しかもどうやら付け耳ではなく、本物のようだ。青年の意思で動いているように見受けられる。
 ――幸か不幸か、彼女は好奇心が人一倍強かった。だから、その時はもう無我夢中で家の敷地を飛び出し、地面に落ちたハンカチを引っ掴んでその謎の青年を追いかけたのだ。
 
 
 青年は気付いていなかった。どこかで間違ってはめ込まれたパズルのピースがあることを。
 だから、アリスに気取られないよう一瞬だけ振り返って、彼女が付いてきていることを確認した彼は、そのまま物語を進めてしまった。
 
 そして、彼女は何も知らなかった。
 だって、彼女には知る術が何もなかったのだから。
 だから、そのまま物語に取り込まれてしまったことすら、彼女は気が付かなかった。
 
 
 彼女は何も知らなかった。彼は気が付かなかった。
 ――けれど、この邂逅が全ての始まり。
 きっかけは少女のささやかな魔法。でも、本の表紙を開くにはそれで十分。
 そして、彼女と彼は出会ってしまった。
 
 どこかで狂ってしまった歯車は、止める間もなく回り始めてしまった。
 
 
 アリスにとってその日は、とても平穏に過ぎ去って行くはずだった。
 だけれど、もう、物語は始まってしまったのだ。
 
 あとはただ、終わりが来るまで項を捲り続けるだけ。
 
 
 
 アリスは必死で青年を追いかけた。
 だが、どうしても追いつくことができない。しかし、なぜか決して青年との距離が広がることはない。
 
 それはまるでどこかへと誘われているようで。
 
 それは、実際そうだったのだろう。アリスは青年を追いかけるのに必死で気が付かなかったが、道の周りの景色が僅かばかり雰囲気を変化させていた。
 ――ある種の線を越えてしまったのだ。
 辺りは一見、今までと変わらぬ長閑な田舎の景色に見える。しかし、よくよく目を凝らして見れば、辺りにはどんな分厚い植物図鑑を開いてみても、絶対に載っていないだろう植物がそこかしこに自生している。
 好奇心の強いアリスが、もしも周りに気を回す余裕があれば、あるいは青年を追いかけることを諦めてそこに立ち止まったかもしれなかった。
「あーもうっ! 何回も人が呼びかけてるってのに、何で止まらないかなあの男は!」
 いいかげん、アリスも疲れてきたようだ。まるで幼い子供のように頬を膨らませて、青年に向かって悪態を吐き始めた。
 何よ男に兎耳なんて、やら、白髪の爺のクセに足速いのよ、などと段々と呟く内容が理不尽になっている。
 だが、彼女はそれでも走ることを止めない。ここまで来たのに、今更引き返すのは癪に障るらしい。
 一陣の風が、アリスの肩口辺りで跳ねる髪を弄んで去って行く。
「ちょっとー! 待ってってば! ハンカチいらないのお兄さん!」
 ハンカチを右手に持って大きく振っていると、そのハンカチの中から何かが落ちた。しかし、アリスは気付かずその場を走り去って行く。
 落ちたのは一片の花弁。その小さな青い花弁は、誰にも気付かれず、拾われず、風に攫われてどこかへと行った。
 
 アリスがもう一度、前を走る青年に声をかけようとしたその時だった。
 青年がアリスを振り向いて、微かに笑ったような気がした。
 そして、自分の隣で小さな女の子が自分と同じように走っているのが、見えたような気がした。
「え?」
 次の瞬間、今まで確かに前方を走っていたはずの青年が忽然と姿を消し、代わりに、アリスの前には大きく深い穴が現れていた。
 地面にぽっかりと口を開けたその穴の奥底には、何となくぼんやりとしたオレンジ色の明かりが灯っているように見える。だが、その明かりのある所まで、いったいどれほどの距離があるのか皆目見当も付かない。その穴は、それほど深い。
 しかし、アリスにはそんなことを考えている余裕はなかった。
 あまりに突然なことに、アリスは咄嗟に反応できなかったのだ。すぐ目の前に現れたこの穴を前に、急ブレーキが効かなかったらしい。――つまり、勢い余って穴に飛び込んでしまったのだ。
「きゃああああぁぁぁぁっ!!!」
 悲鳴が辺りに木霊して、ふつりと余韻も残さず途絶えた。
 見れば、いつの間にかあの穴は消えている。辺りに蔓延っていた不思議な植物も揃ってなくなっている。
 全てが元通りだ。
 そこにあるのは、ごく普通のとある田舎の風景だった。
 変でも不思議でも何でもない、ただの日常の風景があるだけだった。
 
 ――どこからともなく、厳かな鐘のような音が響いた。
 その音で、僅かに残っていた夢の残滓も全て消え失せ、辺りはまた何事もなかったかのように動き始めた。
 
 そこにあるのはただ日常の風景だけ。
 
 
 
 
 
 
 そこは、白と、赤と、黒で彩られた豪奢な城。
 匠の技によって磨き上げられた大理石の床を、彼女は荒々しくハイヒールで踏み鳴らしながら歩く――いや、もう既に小走りになっている。
「ローズ! ローズ、スカーレットローズ! どこだ!」
 息を荒くし、眉間に皺を寄せながら、彼女はとある者を捜していた。
「――女王。我はここに」
 捜し人がその姿を現すと同時に、彼女は大声で言い放った。その紅い瞳に、燃え立つような炎の光を宿して。
「白兎を捜せ! それから、早く――」
 深紅の薔薇は女王を静めるように、諌めるように、心得ている、と静かに女王の言葉を遮りながら言って、彼女の前に傅いて応えた。
「矛盾は無理やりになってしまったが、正しておいた。だが、そう持たない。早く、元の状態に戻さなければまずいだろう」
 深紅の薔薇は待つ。
 女王の命が下るまで。
 ――そして、女王は威厳を持って告げた。もう、そこには取り乱した様子は、ない。
「わらわを誰と心得る。すぐに対処をする。スカーレットローズ、即急に手配を」
 にわかに城中が慌しく動き始める。
 
「御意に。ハートの女王」
 
 女王は大広間へと進み、薔薇はその身を翻して回廊の奥へと消えて行った。

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