深い深い眠りの淵で、時の彼方、夢の向こう、未来の姿を垣間見る。
 彼は彼女の見る夢を見続ける。
 遠い遠い遥か昔から、その夢が覚める日まで。
 
 
 

賢者の夢と目覚め

 
 
 
 空の青が映える、若緑の広大な草原。この地に点在する、羌族の者達が飼う羊の群れの白が、晴天の今日は遠く離れていてもすぐに見つけることができる。
 
 その草原のとある場所に、羊が一塊にぎゅうぎゅうと固まっている所があった。
 ――老子の寝床に選ばれた羊の群れだ。
 しかし、その上で常に眠っている筈の老子がなぜか今日はいなかった。そこに残されているのは彼愛用の怠惰スーツだけ。
 辺りを見渡せば、その場から少し離れた大きな木の下に、かの人は、いた。
 それは、非常に稀なことだ。彼は何よりも怠惰に眠ることを好む。
 ――実に三年ぶりの起床だった。
 
「ふあぁぁ……」
 さわさわと風に葉を揺らす大木の下を見やれば、相変わらず眠そうではあったが、珍しいことに彼はきちんと起きており、尚且つまだ幼い彼の養女である邑姜の相手をしていた。
「老子、今日は何を教えてくれるんですか?」
「ああ……そうだね、どうしようかなぁ……」
 実にのんびりとした光景だった。今まで老子は邑姜のせがむままに、様々な知識を彼女に与えてきた。それこそ、一般教養から専門知識まで、その分野は様々だ。
 今日も、邑姜が教授をねだっている。
 だが、今日はいつもとどうも様子が違う。常もやる気のある師とは言い難いが、それでも一つ一つ丁寧に物事を教授するというのに、ふと、話の合間に何かを考えるかのような目をして空を見上げ、彼はそのまま黙り込んでしまった。
 邑姜は小首を傾げて、そんな老子に声をかけた。
「……老子?」
 しかし、老子は邑姜の声など聞こえなかったかのように、天を睨んだまま微動だにしなかった。
 邑姜もそれ以上どうすればいいのか判断できず、ちょっと困った顔のまま、老子を見上げ続けた。
 彼は、空を見据えたまま動かない。
 彼女は、彼を見詰めたまま動けない。
 
 
 
 ――どれほど、そのままで時が過ぎただろう。
 いいかげん、老子が目を開けたまま眠りに落ちてしまったのかと邑姜が思い始めた頃、老子が見詰める青い空の彼方に、何かが見えた。
 
 それは、白い河馬のような霊獣に乗った、一人の道士。
 全ての始まりを告げる、風。
 
 彼らが見えなくなるまで見送ると、老子はふと溜息を一つ吐いて邑姜に向き直った。どこか、気だるそうでもあり、また、何かを決意したような雰囲気を持って。
「邑姜。今日は機の読み方を教えよう。いずれ、必要になるだろうから」
「機の、読み方?」
 不思議そうに邑姜が聞き返す。
「そう。よく聞いておきなさい。邑姜は、歴史が動く時代を生きてゆくのだからね」
 
 ――まだ幼い邑姜にはわからないかもしれない。
 けれど、彼女は賢い。
 時が経ち、その時が来れば、自ずとこの意味を悟るだろう。
 だから、今教えるのだ。
 次にいつ、己が起きるとも知れないから。
 己はまだ、夢の淵から現の岸へ帰るわけにはいかない。
 「彼女」の夢はまだ続いているのだから。
 そう、まだ。
 今旅立って行ったまだ初々しく青い風が、歴史を動かし始めるのには、まだ幾年か時間がかかるだろう。
 しかし、彼はいずれここに赴いて来る。
 それまでに、彼女を育てておかねばならない。
 
 老子は僅かの間その瞳を閉じ、そしてまた、空をもう一度見上げた。
 ――ここからでは距離があるのかよく聞こえなかったが、どこか遠くの方で大きな騒音がした。
「……申公豹か……」
 老子はまた一つ溜息を吐き、どこか名残惜しそうに空から目を離し、邑姜の方を向いた。
 そして、きょとんとする邑姜の頭を撫でてやりながら、誰かに話し掛けるとも、独り言ともつかぬ言葉を呟いた。
 
「……封神計画が始まったよ。この結果を私は知らない。「あなた」も知らない」
 
 辺りの草を食べ尽くしてしまったのか、羊達がゆっくりと移動を始める。
 空は相変わらず青かったが、少々雲が出て来たようだ。
 
「あなたの夢と、私達の現。どちらが勝つのだろうね」
 
 風が、彼と彼女の間を通り抜けて行った。
 彼はふと笑みを零す。
 
「……彼は、どうも負けず嫌いのようだけれど」
 
 
 
 
 
 深い深い眠りの奥、賢者は夢を見続ける。
 その、傲慢な彼女の夢が消えてなくなるその日まで。

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