墜ちた空

 
 
 
 
 
 人々はただ、地上から眺めることしかできなかった。
 想像を絶する戦い、そして――誰もが予想し得なかったほどの、哀しみ。それでも、まだ終わらない。世界を揺るがす物語は、これからやっと終幕を迎えようと動き始める。
 
 
 聞仲の死。それと引き換えに多くのものを失った。十二仙を筆頭に多くの仙道。それに、今まさに遥かなる大地へと落ちて行く、二つの仙界。
 仕方がなかった。そう言ってしまうことは簡単でも、誰もその言葉を容易に受けとめることはできない。かの太師は強かった。けれど、それだけでは割り切れないほど、大切なものを失い過ぎた。
 
 
 仙界の最期を見届けると、太公望は四不象だけを連れて皆の下から、誰にも気付かれぬようにそっと離れた。
「御主人……」
 岩の上に蹲り、太公望は一人涙する。音のない、だが、確かな慟哭が、空に響いているようだった。
 四不象はその小さな背中が、いたたまれなくてどうしようもなかった。自分にできることは、こうして見守ることだけだということを、嫌になるくらい痛感した。これまでだって十分過ぎるほど辛かったし、痛かったし、哀しかった。だが、かの人はその全てを内に押し込めて来た。本当は辛いくせに、平気な顔をして、それでも何とかやって来た。四不象にはそれがずっと歯痒くて、歯痒くて、悔しかった。それに、いつかはいくら心の器の大きい太公望であっても、感情が溢れ出す時が来ることを彼は半ば予測していたのだった。
 ――ただ、その「時」がこんな大惨事だとは、知らなかったけれど。
 相変わらず太公望の背には、何人をも受け付けない拒絶の意思が絡み付いていたが、それでも、四不象は主人を一人置き去りにしようとはしなかった。彼が本当に一人きりでいたいと思っているわけではないと、感じ取っていたから。だから、彼の気が済むまでずっと離れるつもりはなかった。
 当の太公望は、珍しく自分の感情を持て余していた。心の中が何かで掻き回されたように、靄が渦巻き、自分でもわけがわからなかった。
(どうしたものかのう……。涙が、止まらぬ……)
 周りの者は皆、口を揃えてこう言う。あなたが一番辛い役目なのだから、と。しかし、太公望はだからと言って、自分一人がいつまでもめそめそと、湿気たままでいるわけにはいかないとわかっていた。それはもう仕方がないことだ。自分は司令官なのだから。自分が立ち止まってしまえば、全てが滞ってしまうのだ。それでは司令官失格になってしまう。
 だが、そう考える思考とは裏腹に、透明な、しかし血の色をした水は留まることを知らない。いくら足掻いても、止まってはくれなかった。
(まったく、情けないものだのう)
 自嘲の混じった苦笑いしか、今は顔に浮かばない。
 最後の足掻きとばかりに、流れ落ちる雫を振り払って睨み上げた空は、嘘のように青かった。
 その空にふと、誰かの声が響いたような気がして、太公望は目を見開いて天をまじまじと見つめ――その時唐突に、彼の脳裏に色を失っていた記憶が一つ、二つといくつもいくつもゆっくりと鮮やかに甦ってきた。
 あの時あの日の空も、抜けるような青空だった。
 
 ――太公望!
 
 ――師叔、ちょっとこっち来て下さいよー。
 
 ――やあ、太公望。
 
 ――太公望様っ、おはようございます!
 
 
 ――おーい、太公望殿ー?
 
 
 ――望ちゃん。
 
 どうして、今まで忘れていたのだろう。
 いや、忘れていても仕方ないのはわかっている。どれもこれも些細な出来事の記憶だ。この忙しい日々の中に埋もれてしまったら、二度とは思い出さないような、そんな。
 だが、記憶の中の彼らは皆、眩いばかりに笑っていた。
 たったそれだけのことに、今までどれほど救われてきたか。そして、今もまた彼らは落ち込んだ深い深い谷の底から引き上げてくれた。
 
「……さて、スープーよ、そろそろ帰ろうか」
 まだ、痛みが消えたわけではないけれど、心に残った傷が癒えたわけではないけれど。ここで立ち止まることはできない。全てを終わらせるまでは、立ち止まれない。彼らの笑顔が思い出せる内は、まだ、大丈夫だから。
 太公望は涙の残滓を完全に振り払い、四不象に向かって穏やかな笑顔を見せた。
「了解っス! 御主人!!」
 辺りに四不象の嬉しそうな声が響く。
 
 太公望は皆の所へ帰るために立ち上がりながら、もう一度、どこまでも遠く青い空を見上げた。
 そこにはもう、かの巨大な空中山脈も、浮遊列島も、浮かんではいなかった。
 ちくりと、胸のどこかがまた、痛んだ気がした。もう、あの空は帰っては来ない。
 
 
 
 そう、――今日、空が墜ちた。

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